トップ雑記>第三帝国期における地方行政


 
国家弁務官
 1932年にはドイツ国首相フランツ・フォン・パーペンは、プロイセン州首相オットー・ブラウンが率いるプロイセン州政府がドイツ国政府の命令を無視したとして「プロイセン・クーデタ」を起こしてブラウン以下州政府の要人を排除した。 この後、パーペンは暫定的な処置としてプロイセン州に国家弁務官を設置し、パーペン自身が国家弁務官に就任して統治した。
 1933年2月6日、「プロイセンにおける秩序ある政府の樹立のためのライヒ大統領令」が発せられ、パーペンが再び国家弁務官に就任し、 プロイセン州の権限を握った。その後テューリンゲン州、メクレンブルク=シュヴェリン州、オルデンブルク州、ブラウンシュヴァイク州、アンハルト州、リッペ州にも国家弁務官が置かれた。 バイエルン州などは抵抗したものの、国会議事堂放火事件後に発せられた緊急大統領令がその抵抗力を奪った。3月9日、突撃隊と親衛隊がミュンヘン市内を騒擾状態に陥れた。 これを州政府が統御できないことを理由にしてフランツ・フォン・エップがバイエルン州の国家弁務官となり、州政府を解散させた。これは州の自治権を奪う強制的同一化の動きの中で行われた。
 4月7日には『ラントとライヒの均制化に関する暫定法律の第二法律』が公布され、国家弁務官に代わってライヒ代官(または国家代理官、州総督Reichsstatthalter)の設置が定められ各州の国家弁務官はその役割を終えた。

 
州総督
ドイツ国領内での州総督のみ記載、ダンツィヒやケルンテンなど1933年以降に獲得した地域については省略
総督

バーデン(1940年からはバーデン・アルザス)

ロベルト・ヴァーグナー

バイエルン

フランツ・フォン・エップ

ブランシュヴァイク/アンハルト

ヴィルヘルム・フリードリヒ・レーパー(33~35)
フリッツ・ザウケル(35~37)
ルドルフ・ヨルダン(37~45)

ハンブルク

カール・カウフマン

ヘッセン

ヤコプ・シュプレンガー

リッペ/シャウムブルク=リッペ

アルフレート・マイヤー

メクレンブルク=シュヴェリーン/リューベック/メクレンブルク=シュトレーリッツ
(1934~1937年はメクレンブルク/リューベック、1937~1945年はメクレンブルク)

フリードリヒ・ヒルデブラント

オルデンブルク/ブレーメン

カール・レーファー(33~42)
パウル・ヴェゲナー(42~45)

プロイセン

アドルフ・ヒトラー(33~35)
ヘルマン・ゲーリング(35~45)

ザクセン

マルティン・ムッチュマン

テューリンゲン

フリッツ・ザウケル

ヴュルテンベルク

ヴィルヘルム・ムール

 
州首相
・プロイセン州
国家弁務官が行政を監督(1932年7月20日~1933年1月30日)
フランツ・フォン・パーペン(1933年1月30日~1933年4月10日)
ヘルマン・ゲーリング(1933年4月10日~1945年4月24日)

・バイエルン州
 ハインリヒ・ヘルト(Heinrich Held)はバイエルン人民党の共同創設者の一人であり、1924年7月から州首相の地位にあった。 NSDAPの政権獲得を防ぐために、バイエルン王太子ループレヒトを州委員に任じて独裁権を握らせる計画が浮上し、 多くの政党の支持もあったが、ヘルトはためらっているうちに、ヒトラーが首相に任じられた。

 1933年3月9日にはフランツ・フォン・エップ率いる突撃隊部隊によりバイエルン州政府は解体され、エップが帝国弁務官(後に州総督)、 ルートヴィヒ・ジーヴェルト(Ludwig Siebert)が州首相の地位に就いた。
 州首相となったジーヴェルトであったが、その権限の多くは帝国弁務官に移っており、実権はほとんどなかった。 中央政府の協力も得られないまま、1942年11月1日に没した。脳卒中で倒れたアドルフ・ヴァーグナーに代わり、 バイエルン州内相及び教育文化相の職務を行っていたパウル・ギースラー(Paul Giesler)が州首相に就任した。 ギースラーは敗戦まで州首相の座にあり、1945年5月8日に妻と母親と共に自決している。


 
市長
・ベルリン市長
 ハインリヒ・ザーム(Heinrich Sahm)は元自由都市ダンツィヒ上院議長であり、1931年4月14日からベルリン市長を務めていた、 無所属の政治家・弁護士である。彼はヒトラー政権誕生後も市長の座に留まったが、失脚させようとする攻撃に晒された。 1933年にユリウス・リッペルト(Julius Lippert)がベルリン州委員に任命されたのちは実権を失っていたが、1935年12月18日には辞任に追い込まれ、 1936年5月11日からはノルウェー特使としてオスロに派遣され、1939年10月に同地で没した。

 彼の後任のオスカー・マレツキー(Oskar Maretzky)は、ドイツ人民党、1924年からは国民自由帝国党に属した政治家で、 ヒトラー政権誕生以降もNSDAPに入党することはなく、無所属であった。1937年3月31日に辞任するまで市長の座にあった。

 その次の市長は元ベルリン州委員のユリウス・リッペルトである。彼は1927年にNSDAPに入党し、ゲッベスルの新聞「攻撃」の 編集長を務め、1933年10月にプロイセン州議員となった。ドイツ南東部の宣伝活動を担当し、ベルリン・オリンピックの監督 にも参加していたのだが、このことはゲッベルスの権力を脅かすものとみなされ、1937年に権力闘争に敗れて州委員を解任され、 実権のない市長となった。またゲルマニア計画に反対したことでシュペーアとも対立し、ヒトラーにも無能呼ばわりされて 1940年7月に解任、ベオグラードでのラジオ宣伝任務に左遷された。

 そんなリッペルトの後任はルートヴィヒ・シュテーク(Ludwig Steeg)である。1933年に入党したシュテークは、 ベルリン州副委員に任命された。リッペルトが市長となると、シュテークが州委員となり、市長からも失脚すると、 より良い人物が見つからなかったため、シュテークが市長に任命された。
 大戦中は徴兵による人材不足や度重なる空襲による困難な状況にありながら、シュテークは市長として生産と食品の流通、 避難所の建設、女性・子どもの避難計画を作成・実行したが、1944年からは実務を引き継いだゲッベルスが市政を管理した。 1945年5月2日に赤軍に降伏したが、逮捕され、同年9月に収容所で亡くなった。


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